スミレの






「せんせーさようならあー」
「あー、じゃあなー」
 任務帰りなのだろう、スリーマンセルの子どもたちが、泥に汚れた袖で顔を拭いつつ手を振った。教師は分かれ道に立って、それぞれ散っていく背中を見守っている。
 不意に飛び込んできた光景にカカシはつかの間、ぽかんとした。
 それはいつもと変わらぬ里の風景だった。
 夕飯の買いものを終えた主婦。背中に負われた子のぐずついた泣き声。家に帰るのではなく居酒屋へと肩を並べる男たちの足元を縫うように、友達ともつれるようにはしゃぎまわるアカデミー帰りの子どもたち。これからが本番と、萎れていた切花を水につけたかのように生気を振りまく高いハイヒール。
 いつもと同じだ。
 何一つ変わらない。
 変わらないはずなのに、何故だか毒気を抜かれてしまった己に驚いてカカシはつかの間時を忘れた。
 道の脇の杭に絡むつる草の葉の上を、虻が飛んだ。
 水滴が葉の繊毛からはじかれて、真珠玉のように転がりおちる。
 雨のあとの水溜りに波紋が広がった。
 雲のたなびくばら色とすみれ色の同居した空をそっくり映した水溜りを越えようとしたその手前でカカシは突っ立ってしまった。
 ほんの三年前。
 あの場所で、サクラと、サスケと、ナルトを見送っていたのはカカシだった。サスケは少し不機嫌そうに、サクラはサスケに残したわずかばかりの未練を振り切るように、そしてナルトは自分は少しも寂しくなんかないと強く主張するように、顔中を笑みの形にして、跳ねるように手を振った。
 目の前にあったのは過ぎ去った過去。
 かつての形そのままの再現だった。
 何故、見送る教師が己ではなく、見送られる子どもたちが七班の面々でないのか不思議だった。
 大きく隔たってしまったことはわかっているのに、まるで一歩足を踏み出せばその時に戻れるような。「サスケ」と呼びかけたら変声期前の少年の高い声で「……なんだよ」とかえってきそうな気がして、カカシは身動きができなくなった。
 ふぉぉんと虻の羽音が空気を震わせている。
 黄金が、流れていく。
 カカシの背を桃色に縁取り、橙色のコントラストを際立たせながら、雨上がりの雲を従えた太陽がゆっくりと傾いていた。



 パスン。後頭部への軽い衝撃でカカシは我に返った。
「なーに突っ立ってんですか」
 イルカだった。
 片手には閉じられた傘。もう片手に軽くまとめられた紙の束をもっていた。
 カカシを軽く嬲ったのはその紙の束だった。
 トントントン、とおっさん臭くも傘の先で自分の肩を叩いて、イルカはぐきぐきと首をひねった。
「こーんなところでぼうっとしてちゃ通行人の邪魔ですよ。ほら、行きますよ」
 促されるまますぅっとカカシは一歩踏み出し、水溜りを乗り越えた。
 金縛りにあったように身動き一つできなかったの嘘みたいだ。イルカに一声かけられただけで、呪文がとけたかのようだった。
「帰りますよ」と先に立つイルカに半歩遅れカカシは続いた。
 親の後をついて歩く雛のように、うまれてはじめて土を踏むようなふわふわした心地でカカシは歩いた。まっすぐなイルカの緩やかな足取りには躊躇いがない。だからカカシも安心してついていける。その心を委ねて、雨の後の雫を残した電線から飛んだ雫がカカシの頬を濡らそうとも、避けようと意識にのぼらせることすらなく受けた。
 普段、カカシはその身に染み付いた習性で己の周辺の全てを測っている。微弱に纏わせたチャクラで空気の揺れや気配をいち早く察知し、敵味方の区別をするために。だから、普段のカカシの行動に厳密な意味での無意識はあまりない。チャクラで雨粒を察知したら、状況を判断して濡れるかそうはしないかを選択する。それを非常にシビアに行なっていた。だから、イルカに後頭部をはたかれるまでその存在に気づかないなんて事本来ならありえないことだった。カカシは人に接近される前にその人物を敵か味方か判別し、予想される行動を受け入れるかどうかをオートマティックで選択しているはずだからだ。カカシの例外、それを可能とするのは、イルカがカカシの恋人だからという理由では半分正しくて半分間違いだった。
 イルカとカカシが恋人になった当初、カカシはやはりイルカの行動を他の人間と同じように測っていた。敵か味方か。その度に繰り返し判別を行なって。
 だが、飽きるほどそれを繰り返し、お互いの身体をそらで辿れるほどに覚えてしまって、同じ部屋にいるのに無言でお互いがお互いを空気みたいに必要とするようになった頃、カカシの本能はイルカについての判別を放棄した。カカシに触れるイルカの指はいつだって味方。カカシをぶつイルカの掌はいつだって味方。カカシを噛むイルカの歯だってカカシの味方なのだ。敵と味方。その二種類で世界をわけるカカシの中でイルカだけはいつだって真っ白なオセロ。カカシを害そうとしているようにみえてもカカシはそれに抗わない。カカシはイルカの寄越すものならば蜜でも剣でも無条件に飲み干すだろう。
 それは、唯一イルカだけが、カカシが心から参ってしまった人間だからだ。



 イルカは、カカシとは違う人間だ。
 精神の成り立ちが異なっている。カカシは自分がつまらない人間であることを知っている。
 例えば理想というものがある。
 人がこういう風になりたいという、自分の将来像、または切望する自己のモデルとして。ナルトならばそれは火影になるという夢であり、自分を迫害していたものへの意識転換を促し自己への受容をはからせるための手段として。単純にすげーっていわれたくて。褒められたくて。誰かに傍にいて欲しくて。
 そのためにがんばって、達成した理想像としての火影は、仲間がいて支えあうことができて笑うことのできる自分だ。
 ナルトの出発点は、受け入れて欲しい、寂しいという気持ちだ。だが恐怖や嫌悪が根源にある人間の意識の変容を促すのは容易なことではない。それを達成するのは厳しく辛い。
 諦めてしまえば楽になる。それを諦めずなにくそと踏ん張るナルトは心が強い。他人に受け入れられることなんて諦めてひとり傷つかないように閉じてしまうほうがずっと楽なのにそうしない。イルカもそうだ。
 生きることは苦しくて、うまくいかないことも多い。恥ずかしいこともうれしいことも悔しいこともその矜持を曲げないといけないことも度々だ。その時ごとに傷を負っていびつに変質していくのが人の心だ。
 だけど、ナルトも、イルカも泥まみれになりながら、自ら血を流しながらもその視線はまっすぐ前を見据えて揺るがない。それがまぶしい。
 カカシなら諦める。瞬時に白と黒を判断する基準は、限りなく黒で努力を積み上げて白に塗り替えるための労力と失敗したときのリスクをはかりにかけて、はじめから勝負しない。



 カカシは―――角を曲がるサスケの背中を引き止めることができたと思う。サスケが思い返す可能性は実に低いものだったとは思うけれども、感情だけでひきとめようとするナルトに比べたら、サスケは思いを翻すに足る情報をサスケに与えることで、結局は旅立つにしてもわずかにその足を踏みとどまらせることができたと思う。大蛇丸が何をしてきたかをつぶさに伝えていたらサスケはその身を無防備に大蛇丸に与えることを躊躇しただろう。だがそれは子どもに与えるには危険な暗部の情報も含み里の機密に抵触することでもあった。そこまでは―――という見込みの甘さが結果を招いたようにも思える。
 里が『うちは』を野放しにすることはない。抜け忍は追われるものだがサスケの追跡は執拗になることは目に見えていた。それは何故かということまでを告げることを躊躇ったのは、結局それでもサスケは里を抜けるだろうと踏んでいたからであったのだが、抜けるまでの猶予があれば事態は変わったのではないかと考えはじめたらぐちゃぐちゃになる。
 普段カカシは倫理観とかそういうものと自分の行いのバランスをとることを放棄しているから余計なことは考えない。白か黒か、で終わりだ。
 でも、はじめて受け持った子どもたち。三人の子どもたちだけは別だ。共にすごしたのはとても短い時間だったけれども、でもだからこそ考えてしまう。繰り返し。何度も。
 三人がカカシの前で見せた幼い表情。あけっぴろげな素の顔。取り繕うとしていたサスケだって、時々は真から笑っていた。
 イルカはその三人の記憶を共有する人間だった。ナルトは里で避けられていたから親しい人間といったら限られる。ナルトを知り、サスケを知り、サクラを知るほとんど唯一の大人だといっていい。
 三人が別々にカカシの元から旅立ったとき、カカシはイルカの前で弱音を吐いた。もう駄目だと思って。自分の至らなさに絶望して。良かれと思って結局一番駄目な方向へ導いてしまったのではないかとイルカの前で零した。
 駄目だ、駄目だ。オレは卑怯者だと嘆くカカシの話を辛抱強くイルカは聞いて、それからこういったのだ。
「よわくていいです。ずるくていい。卑怯だっていい。きっとそういう自分のずるさや弱さや卑怯さを一番よく知っていて、そのことを悔しく思うのはカカシ先生だと思うから。弱くってなさけなさを知っている人だから、そういう未練とか過去を振り返るところを含めてオレはカカシ先生が好きなんです」と。
 そのひとことにカカシはすっかり参ってしまった。
 ありきたりな青臭い台詞。
 でもその時のカカシが何より欲しかったもの。駄目だったとか正しかったとかそういう評価じゃなくて、三人を知っていて自分を知っている人間からの共感と肯定。
 しかもイルカはひそかにカカシが劣等感を抱いていた相手でもあった。忍としてではなく、教師として、三人の子どもたちはカカシよりも前にイルカから教えを受けていた。子どもたちは、ナルトだけではなくサスケであってさえ、イルカを見上げる眼差しには信頼が満ちていた。ただ甘やかすだけではなく声を荒げるその瞬間であってもそこには強い信頼があった。
 カカシはイルカにはなれない。違う人間だから当たり前なのだけれど、イルカを見ていると、何故自分はそのような人間になれなかったのかと思って悲しくなった。



 カカシのイルカを乞うる気持ち。
 それは恋ではあるがそればかりではない。憧れとか尊敬とか、慈しみとか憎しみとか嫉妬とかもう自分でもよくわからない感情がぐちゃぐちゃになってイルカに溢れている。
 だから―――イルカは特別。
 カカシの中でイルカの場所は不動。
 イルカはいつだって、白いから、カカシはイルカの事ならば全て受け入れる。たとえそれがカカシの命を害することであっても逆らうことはないだろう。無意識のレベルでカカシはイルカに殺されたいと願っている。生殺与奪をあたえるというのはつまりそういうことだ。



 水溜りにうつる景色は逆様だ。
 地面に広がる空に、ひっくりかえった植物。足が上で頭が下。
 でもどんなにあべこべでも、そこに映るものは変わらない。その価値も美しさも。移ろいゆく夕景のはかなさも。傘を手にするイルカも。
 水溜りの中のさかさまのイルカは鏡面世界いっぱいを占めていてまるで神様みたいだった。
 考えれば考えるほど距離を感じて足取りは重くなった。完全には止まらないまでも、ゆっくりになった歩調に二人の間は見る間に開いた。
 イルカは夕陽に向かって歩いている。夜はカカシの背後から迫ってくる。
 濃い群青のベールが、家々の屋根を呑み込み、カカシの肩を叩き足元から取り込もうとする。深い底なし沼みたいな憂鬱にカカシが身を委ねようとした時に、くるっとイルカが振り向いた。
 イルカは一緒に並んでいるはずのカカシがずっと遠くにいるのを見つけて、眉をひそめたが、大またでカカシのもとまでやってくるとまっすぐに紙の束を持った手を差し伸べた。
「……な、なに?」
 胸元に絡みつく夜気の誘惑に抗い得ないカカシにはイルカはまぶしすぎた。持てということかな、まさかね、なんて内心思いつつたじろぐとイルカは紙の束を改めてもちかえてカカシにいった。
「手、つなご」
「……な、なんで?」
 普段そういうことをねだるのはカカシのほうで、イルカは人目につくからと嫌がるのだが「いいから!」と強引にカカシの手を掬いあげてしっかり握った。
 カカシの手とイルカの手。質感や形は違うが、同じ男の、サイズの似たふたつの手はぴたりとあわさった。指と指の間にきゅっと力を込めて、イルカは下がっていた口角をほんのりともちあげた。
「ずっと繋ぎたかったんだあ、たまにはいいですよね。こーゆーのも」
 ぬるんだ春のように表情をやわらかくとかして、イルカは再びカカシを帰途へと導いた。
 手を繋いでいるから今度はカカシが遅れるようなことはない。ぴたりと二人よりそう。



 カカシは。
 イルカには勝てない。
 他の誰にどうなろうとイルカにだけには永遠に勝てない。
 でも勝てなくてももうそんなのどうでもいいと思うから、泣き笑いの表情でイルカだけを道標に自らの目蓋を閉じた。








 はーるをあいするひと−とはーこーころきよきひとーすーみれのはなのようなぼーくのせんせいー
2008.06.26